第6話:子ども達を育て上げるために死ぬ気で働いた日々

第6話:子ども達を育て上げるために死ぬ気で働いた日々 結婚から離婚までのストーリー

計画通りにはなかなか行かないものである

時は流れ、子ども達もどんどん成長し、私の仕事の方も紆余曲折はあったが、なかなか安定して稼げるようになって行った。

そんな中、長男・次男は運動部系で、二人とも小学校から大学までスポーツをずっとやっていた。運動部系の部活をやっていると、結構なお金がかかるものである。

3歳違いなので長男が大学入学時、次男は高校入学。
2人揃って私立である。この1年だけで2人の入学金と授業料で300万ほどかかった。

ここから数年続く、毎年何百万単位のお金を支払うために死ぬ気で働くしかなかった。

体育会系の部活をやっているとバイトも出来ないし、部活の遠征費やら何やら本当に飛ぶ様に万札が消えて行く。

食費もさることながら、お弁当作りも洗濯もすごい量になる。

それでも、子ども達が好きなことを見つけて追いかける姿はキラキラしていて、応援する事が何より私の楽しみの1つになっていた。

ただ、どれだけ働いても働いても湯水のようにお金が消えて行く。
当初の計画よりも早く、お金を貯めて出て行くことも出来そうな勢いだったが、学費と部活の費用を払うことで道のりはまた遠くなってしまった。

しかし、最初に決めた「子ども達にお金の心配をさせないこと」という誓いの方が、私にとっては大事だった。足りないなら働けばいい。

当時は深夜まで働き、朝は5時過ぎに起きるという殺人的なスケジュールを何年も続けていたのは、今では信じられない。

それでも絶対に諦めない。ある意味、意地だった

この時、大学に進学したいと言う長男に元夫は難色を示した。大学へなど行かなくても良いというのだ。そして、もれなく次男の強豪私立高校への進学にも難色を示したのである。

そして、次男に向かってこう言った。

そんな強豪校に進学してもオマエにはどうせ無理。試合にも出れずに3年間終わるぞ。

試合になんか出れないだろうし無駄だと言うのだ。もちろん、応援する気もお金を出す気もない。

子ども達はそれぞれ、頑張るから支援して欲しいと私に訴え、お金は私が何とかするから頑張れ。安心して進学してもいいよと言った。言った以上、何とかしなくてはならない。

ちなみに言っておくと、この次男が小学校の時に所属していたチームに、現在も指導者として入っている元夫。子どもが卒業した後でも続けているという、よくあるパターンである。

次男は推薦入学ではなかったが、「絶対にレギュラーになって、お母さんを全国大会に連れて行く!」と言ってくれた。

3年後、その言葉通りレギュラーの座をつかみ取り、夏のインターハイ・冬の全国大会という場所に私を連れて行ってくれた。

小学校の時からずっとサポートして来てこんなに嬉しい事はなかった。本当に諦めずに頑張って良かった。

私一人で学費や部活の費用などの金銭的な事や送り迎え、チームの連絡係など、サポート面もこなし、元夫に一切の協力を頼まなかったのは ある意味、元夫に対する意地もあった。

一度、私の状況を見ていたあるお母さんに「連れ子ですか?」聞かれたことがあるほどだ。

そして元夫は小学生のチームの指導者として、我が子の功績をまるで自分の功績かのように振舞っていたのは言うまでもない。ある意味同じ業界なのだから、県内の各チームの方々から「子どもさんの活躍」を褒められていたようである。

サイコパスの特徴として「外面」だけは良いのである。

お金も出していなけりゃ、弁当の1つも作ったこともない、大きな大会以外は試合も殆ど見に来たこともないのに「息子の功績は自分の功績」なのである。

そして第一子に関しては、ほぼ試合など見に来たことはないと記憶している。

仕事も順調。いつしか何も気にならなくなって

第三子に関しては、あまり話題に上げて来なかったが、やりたいと言った習い事などもやらせていたし、お勉強もそこそこ得意なタイプだったので、中学生・高校生の時に海外に出したりと可能性と視野を広げられるように、私は教育に投資を惜しまなかった。

自分は高卒だが、何より自分のようになってほしくないという一心からだ。

教育についても、普通なら子どもの事を考えて「夫婦で話し合う」というのが理想だと思うのだが、何せ話にならないのだから、自分で何とかするしかない。

自分が出来なかったことを経験させてやりたいという、私の思いとは違うのである。話が噛み合うはずもない。

しかし、子どもの大学進学は拒むくせに、またまた2台目の高級外車をある日突然買って来たりもしていた。

この時も、もちろん、不倫していたと踏んでいる。本当に分かりやすい。
高級外車を買えば良いというパターン化されている所が陳腐である。

ただし、私はもう何も気にならなくなっていた。私の中から完全に「元夫に何かを期待する」という意識はなくなっていた。

仕事はしんどいけど、やりがいもあったし、子ども達のサポートと必死な毎日。
この頃はとても毎日楽しかったと思う。やる事がいっぱいで子ども達もみんなかわいい。
もう、それ以上に望むものなどなかったからである。

自分の視界に、余計なものが入らなくなって来ていた。

まっすぐ続く自分の道しか、もう見えてこなくなっていた。

言っておくが、元夫の晩御飯を作らないとか、洗濯をしないとか、そういう事はしていない。
何時に帰ってもいつでも温かいご飯は食べられるようにしていた。

もちろん、元夫がお皿を洗った事など皆無に等しいし、洗濯機や炊飯器の使い方も知らなかったと思う。家事を元夫に頼んだことなど、ほぼない。

急にご飯がいらないとか、連絡なしで食べて来たと言われても何も気にならない。明日の弁当に回せば良いだけだ。一部、元夫の事業に関する部分もまだ手伝っていたが、それも言われる通りやっていた。

感情がなくなれば「仕事」として笑顔で接する事が出来るのだ。

家賃、光熱費、食費等も払っていただいている。その部分には感謝。 だから自分の稼ぎを子ども達への投資に回せる。 不倫相手がいようがどうでも良い。家事はお給料をもらっていると思えば腹も立たない。

「好き」の反対は「嫌い」だと思っていたが、この頃、その向こう側があると知った。
「無関心」だ。強がりではなく、本当に何も気にならないのである。

これは末期症状に近いものだが、いきなりこうなった訳ではない。長い時間を経てじわじわと蝕まれて行った結果であろう。

今、年齢を重ねて分かったこと

私の例は極端であり、参考にはならないかもしれないが、私の場合は「興味が無くなれば無関心になれる」という事がわかった。ただし、そこに至ると取り返しのつかない状況でもあった。

だからと言って、必ずしも離婚することが正解とも限らない

私の周りの友人達は、それこそ結婚20年、30年という歴史を刻んでいる者も多い。彼女たちの中で離婚まで踏み切るパターンもあれば、そうでないパターンもある。

私は離婚する事を目標にして来たが、「死ぬまでずっと夫に面倒を見てもらう。私は絶対に働かない」という確固たる意志を貫いている友人もいる。

彼女達が受けて来た傷もなかなかのものであるが、離婚しないという選択肢もそれはそれで応援したいと思う。

子どもも巣立ちお金もかからなくなり、旦那さんの収入も年齢と共にそれなりであれば、気持ちを切り替えるという方法で、素敵に人生を楽しんで輝いている女性もいるのだ。

したたかであり、計算高いようにも見えるかもしれないが、この年齢になると次は「遺族年金」まで・・という方法もありなのだ。自分が幸せだと思えるなら色んな選択肢があっていいと思う。

単に離婚するだけが、解決方法ではないという事。色んな事情が多岐にわたり複雑に絡み合うのだから。

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